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無意味について

こんにちは。

暑くなってきました。じめじめしていない分過ごしやすいですが。

写真はGWにちょこっと行ってきた(診療所からチャリで30分ほど)多摩湖の風景です。爽やかです。

 

日常的に「無意味だ」とか「意味がない」とかって使いますよね。もちろんネガティブな感情を込めて。では果たして本当にそれは『無意味』なのでしょうか。そのあたりを考えてみます。

ここで取り上げる『意味』とは、「言葉の意味」とか「文章の意味」といったような即物的なものではなく、もっと観念的なものです。観念的な意味とは、「生きることの意味」とか「生まれたことの意味」といったような根源的なものから「あなたと出会ったことの意味」とか「この品物を買ったことの意味」とか「この文章を読むことの意味」など日常的なものまで様々です。

 

では、この観念としての『意味』はどこから来る、どのようにして生まれる、どうやって決まるのでしょうか?

ここらへんに宗教の入り口があるのではないかと思っています。「万物の意味は神が決める」という思想です。特定の宗教に肩入れするつもりはありませんが、ここに『神』を持ち出す(設定する)のは合理的な発想だと思っています。人間の能力には限界があります。限界を超えた部分は理解不能です。その理解不能な部分を神(人知を超えた存在)にゆだねる(丸投げする)わけです。

一方で、「神という概念はそもそも人間が決めたものである、したがって万物の意味は人間が決める以外にない」という考え方もあります。当然と言えば当然です。ただそうなると、人間が決めたものなら人間に理解できるはずであり、説明できなければなりません。それって結構大変です。骨が折れます。

 

僕は『観念としての意味』は神が決めたのでも人間が決めたのでも、どちらでもいいと思っています。ポリシーの問題でしかない。

そのうえで、『無意味』について考えてみます。

神が意味を決めるのであれば、『無意味』はあり得ません。 万能の神が『意味』を作らないはずはないからです。もちろん人間には理解できないこともあるでしょう。神の意図は計り知れないのです。そして、一見『無意味』と思えることでも、その裏に神の意図が隠されているはずだと考え悩むこと自体に意味がある、と考えることもできます。

人間が意味を決めるのであれば、あることがらを『無意味』としたとき、それが無意味であることの根拠を説明することができるはずです。無意味であると説明することに意味が発生するのです。

結論です。世の中に無意味なことなどありません。

 

逆境に立たされた時、当然ネガティブな気持ちになります。そしてなぜそのような状況になったのか、根拠(=意味)を見出したくなるわけです。なぜ病気になったのか、なぜ仕事を続けられないのか、なぜ親の介護をすることになったのか、なぜこんな苦痛を感じなければならないのか...。

神が意味を決めるのであれば、そこには必ず『ポジティブな意味』が存在するはずです。なぜなら神とはそういう存在だからです。うまくイメージできなかったり、言葉にすることはできないかもしれませんが、必ず『ポジティブな意味』はあるのです。それを心のよりどころにして過ごすのがよいと思っています。

人間が意味を決めるのであれば、何らかの理解可能な説明がつくはずです。人間が意味を決めるのだから、『正解』があるはずです。自分一人で意味を見出す(正解を見つける)ことができなかったら、信頼のおける他者に聞いてみればよいのです。共通認識を持てたなら、それは『正解』に近いのだと思います。自分に関することは自分で正解を決めるしかないかもしれません。だからこそ信頼のおける他者とともに正解を導くのです。

 

そんなわけで、「うちの訪問診療を受けることになった意味」というようなものを一緒に考えてポジティブな正解を導き出せればよいと思っています。