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敬老について

こんにちは。ようやく秋らしくなってきました。外回り業務には有難い気候ですね。

 

敬老の日はすでに過ぎてしまいましたが、今日は敬老ということについて考えてみます。

「お年寄りを敬う」というのはわれわれ人間(他の生物にもあるかもしれませんが)のこころの奥にしみ込んだ概念です。遺伝子に組み込まれているとも言えるのかもしれません。

でもこれを理屈で考えると、ちょっとモヤモヤを感じたりもします。そのあたりを掘り下げてみます。

 

なぜお年寄りを敬うのでしょうか? お年寄りであるというだけで敬う必要があるのでしょうか?

おそらく人類の誕生以来前世紀ごろまでは、当然のように成立する命題だったのだと思います。

 

かつてお年寄りというのは貴重な存在でした。

誰もが到達できるわけではなく、何らかの特殊な技能の持ち主だけがたどり着ける境地だったわけです。身体能力だけでなく、幸運も必要です。当然常人にはない技能・運気を持っている人は尊敬の対象になります。

 

かつて記録・記憶を残す媒体が未成熟だったころ、お年寄りの持つ知識、経験知は貴重な記録でした。

先人たちからの伝承も、大災害の記憶も、その際のトラブルシューティングの方法も、生活の知恵も、言葉や文字では伝わらない匠の技も、直接お年寄りから教えていただく必要がありました。文字通りの先生であり、当然尊敬の対象です。

 

隠居者は日常社会のしがらみを超越した存在です。

日常社会には様々な利害関係があり、当事者は当然自分の利益を追求するわけで、結果として当事者間に紛争が発生します。隠居者はその利害関係を超越した存在なので、当事者間の紛争に対し客観的でフラットな評価・判断を下すことができるわけです。誰にも忖度しない平等な判断を下すことができる存在は、当然尊敬されます。

 

このように、かつてお年寄りはその貴重性、豊富な知識、平等性によって尊敬の対象だったわけです。

では、現代社会ではどうでしょうか?

公衆衛生管理が発達し、有難いことにお年寄りになることは難しいことではなくなりました。人生100年時代を迎え、お年寄りの貴重性は完全に消失しました。

ITが発達し、記録を残すということが容易かつ良質にできるようになりました。匠の技的なものさえ機械が習得するようになり、人から人へ伝承する必要性が劇的に減っています。

社会を平和に、安全に、公平に、平等に維持するための仕組みも発達し、紛争時の判断は専門機関にゆだねるようになっています。

古来から受け継がれてきたお年寄りを敬うという概念の根拠になるものが、現代社会ではかなり希薄になっているわけです。

 

一方で、お年寄りはいろいろな意味で脆弱な存在です。最近はフレイルという表現がよく使われています。

弱者を救済する、というのは尊敬とは異なりますが、人間の(あるいは多くの動物にも共通する)本能的な概念です。ですから、社会がどれだけ発展したとしても、お年寄りは守られるべき対象です。「お年寄りを大切にする」というのは未来永劫不変の概念です。

では、お年寄りを敬う必要はないのでしょうか?

 

その答は『癒し』にあると思っています。

お年寄りというのは、お年寄りであるというだけで、周囲に癒しを与えることができる存在だと思っています。これは常人にはなかなかできることではありません。年齢を重ねるというファクターが必要不可欠だと思うのです。

存在するだけで癒しを与えることができ、さらにおしゃべりし、行動すればその影響はいや増します。認知機能が維持されているかどうかは無関係です。むしろ認知機能の低下に比例して癒し機能は強力になったりもします。

もちろん、存在するだけで癒しを与えてくれるもの、ペットとか、大切にしているコレクションとか、最近ではロボットなどもありますが、それらは人間が癒しを得ることを目的として設定されたものであり、尊敬の対象にはなり得ません。

 

どんなに社会が発展しても、お年寄りが癒しを与える、という事実は不変です。

その一点だけに限ったとしても尊敬に値するのではないでしょうか。

高齢化社会が進み、お年寄りの立ち位置は変わっていきますが、「お年寄りを大切にする」ということと「お年寄りを敬う」という概念は、変わることはないのでしょう。