こんにちは。
少しずつ秋の気配も感じられるようになってきました。日中はまだ暑いですが。
今日は『地域』というものにつて考えてみます。
「地域ってなんだ?」って聞いたら、小学生でもそれなりにまっとうな答えができますよね。社会生活上もその意味はほぼ見当がつくし、的外れなことはないでしょう。でも、ニュアンスの違いはまあまああります。
僕は地域で働いているという自覚があります。僕は医者なので、医療を生業にしています。ですから、僕の仕事は『地域医療』ということになるのでしょう。かつて大学病院で働いていたときは、その自覚はありませんでした。ということは、大学病院で行う医療は地域医療ではない、と考えているということになります。
『地域』という言葉を英訳するとどうなるか、というと一番先に思い浮かぶのは『area』でしょうか。しかし、『地域医療』というときの『地域』は『community』です。で、『community』を和訳すると『共同体』になります。ということは、『地域医療=共同体医療』になるはずです。ではどうして『共同体医療』という言葉が使われないのでしょうか。
それは、『地域医療』という言葉の始まりに由来するのだと思います。
『地域医療』という言葉は実はそんなに古くからある言葉ではありません。1980年に諏訪中央病院主管で「地域医療研究会'80」が開催されました。これを日本の地域医療の始まりとすることが多いようです。この当時は『農村医療』というものが念頭に置かれていたようです。要するに、田舎で、住んでいる場所で、働く場所で行われる医療、ということでしょう。これは大学病院などの大病院は患者さんがどこで暮らし働いているかということには無関心である、ということに対するアンチテーゼだったのだと思います。
そんなわけで、最初は地方とか田舎とかへき地とかの『area』的な意味を込めて『地域医療』という言葉を使い始めたようですが、いざ使い始めてみると、生活に密着した医療というものはある意味医療の本質であると考えられるようになり、地方に限らず都市部でも適合する『community』における医療という意味で『地域医療』という言葉を使うようになったのだと思われます。
では、『在宅医療』と『地域医療』の関係はどうでしょうか。
これ、突き詰めて考えていくと別物として成立してしまうと思うのです。
外来診療を中心に行っているクリニックの皆さんは『地域医療』のメインストリームにいるのだと思います。そういうクリニックの皆さんが、通院困難になったかかりつけ患者さんの家に訪問するという形での『在宅医療』は『地域医療』に包括されるものでしょう。
一方で、(ウチのような)訪問診療専門クリニックは最初から通院困難な方だけを対象に仕事をしているので、community全体を対象にしているわけではありません。これは厳密にいえば『地域医療』ではないと思うのです。communityというものを全く意識せずとも業務は成立してしまうのです。
これは実は大きな問題である(=よくないことである)と思うのです。
俯瞰して主語を大きくしてみると、communityにとって、医療業界にとって、福祉政策において、日本の未来に対して、マイナスの影響が及ぶのではないでしょうか。
今、在宅医療・訪問診療は急速な規模拡大がなされています。それが社会のニーズであるのなら、当然のことかもしれません。しかし、その拡大速度が速すぎると、その根幹にあるはずの本質とか理念とかが薄れていきます。有り体に言えば質が下がると言ってもよいでしょう。
areaとしての『地域医療』には関わらない(例えば地区医師会には所属しないなど)のは別に構いませんが、communityとしての『地域医療』に無関心なのは、communityにとって有害です。『地域医療』を意識しなくても、あるいは別物だと認識しても『在宅医療』は成立してしまうからこそ、能動的にcommunityを意識すべきです。
通院困難な方だけを対象にしているからこそ、その『地域』の人々が通院困難になった際のセイフティネットとして機能することを意識すべきです。それによって自分たちが(まだ)対象にしていない方々にとっても、在宅医療がそこに存在することがプラスの効果を生みます。
そうすれば、われわれ在宅医も『地域医療』の一員として認識されるのではないでしょうか。
長くなってしまいました。
最後に日本の地域医療の生みの親である佐久総合病院の若月俊一先生の言葉を添えておきます。
「医療はすべからく地域医療であるべきで、地域を抜きにした医療はありえない。あえて地域医療というのはいかに地域がないがしろにされているかということの裏返し」