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意思と意向

こんにちは。

今日は台風の影響で一日雨模様でした。土砂降りの外回りはつらいですね。自分は車で移動なので、まだ楽ですが。自転車やバイクで移動の方々の苦労をお察しします。

 

今回は意思と意向というものについて考えてみます。

『意思』という言葉と『意向』という言葉、どちらも日常的に使いますよね。我々の業界では『意思決定』という使い方をするので、医学用語あるいは公的な用語としても使用します。もちろん『意向』も同程度に使用しています。

では、『意思』と『意向』を使い分けているでしょうか? もっと言えば、使い分けるべきなのでしょうか? そもそも『意思』と『意向』は違う意味を持っているのでしょうか?

このあたり、日本語独特の難しさがありますね(注:日本語以外の言語なら難しくないのかどうかは知りません)。

 

われわれは日ごろから意思決定能力の低下した状態の方を対象にしていることが多く、意思決定に支障のある状況で方向を決める必要に迫られることが毎日のようにあります。「患者さん・利用者さんの意思はどうだろう?」と推測することが重要な業務になっています。そこでは、「患者さん・利用者さんの意向はどうだろう?」と置き換えても違和感は(あまり)ありません。

では、『意思』と『意向』は同じ使い方でよいのでしょうか?

 

昔ならこういう時は広辞苑に頼るわけですが、今の時代はAIに投げてみるのがよいですね。例えばChatGPTなどに聞いてみると、『意思』と『意向』は似ているけれどニュアンスの違いがあるんだ、ということを例文を挙げながら丁寧に教えてくれます。テクノロジーは進化していますね。

ただ、ニュアンスの違いというのはそもそも言語化しづらいものなわけで、いくら丁寧に教えてくれてもやはりもやもやは残ります。まあ、何となく違いがありそうだという感じはつかめますが。

 

そんなわけで、どうして『意思』と『意向』という言葉にこだわるかというと、このブログで少し前に紹介した日本老年医学会の 『高齢者の人生の最終段階における医療・ケアに関する立場表明 2025』(本文はこちら)の中で、「意思だけではなく意向も尊重せよ」的なことが書かれていたからです。

そこでは、 ”意向には 非言語で表現された好き嫌いや快・不快に関する表現も含まれる” と書かれています。要するに、「意思は言葉で表現されるものであるが、意向は非言語で表現することもできる」ということですね。これはなるほどと思いました。

(言語による)意思が表明できない状況でも、その方の身振り、手振り、表情の変化などから意向をくみ取って、それをもとに意思を推測して対処する、ということなのでしょう。

 

これ、言いたいことはよくわかります(わかるつもりです)。患者さん・利用者さんの非言語によるなにがしかの表出(それをその方の意向と捉える)を尊重するというのは我々に課せられた使命だと思います。

しかし、本当にそれでよいのでしょうか?

 

僕は実は以前から『意思』と『意向』って全く別物なんじゃないかと思っていました。特にこの仕事に従事するようになってから、「患者さんの意向を推測し、それを患者さんの意思として対処する」という行為に違和感を感じてきました。

たとえば、「痛いのは嫌だけど、治療上必要ならやります」ということってありますよね。これ「痛いのは嫌だ」というのがその方の『意向』であり、「必要ならやる」というのがその方の『意思』なのだと思うのです。

そう考えると、意向はNoだけど意思はYesということになり、完全に反対になるわけです。

 

すると、「意思を言語化できない方の非言語的な表出をその方の『意向』と捉える」というところまでは了承できますが、「それをもってその方の『意思』と考える」というところは受け入れられない、間違っている場合がある、と考えることになるわけです。

「非言語的な『意向』を尊重しましょう」と言うのはよいですが、「ただしその『意向』が本人の『意思』とは異なる場合があるから注意が必要です」という注釈が必要なのではないでしょうか。

今回も天邪鬼ですみません。