こんにちは。
とうとう東京も梅雨が明けたようです。梅雨の間も酷暑でつらかったですが。
小平市に移転して、3週間が経とうとしています。勝手が違うことに戸惑うことが多い日々です。
新たな関係性づくりに励んでいます。
今日は『経過観察』ということについて考えてみます。
『経過観察』という言葉は聞いたことがある方は多いと思いますが、一般的に日常会話では使いませんよね。でも、医療業界ではほとんど毎日のようにあちこちで使われています。僕もよく使います。
文字通り「今後の経過を観察していく」という意味になるわけですが、通常そこにはさらに深い意味が込められています。
「現在起こっている徴候は診断がつきづらいのでしばらく経過を観察して診断確定に向かう」とか「現在起こっている徴候は○○と思われるが、自然に軽快する可能性が高いのでこのまま経過を観察する」とか「なにがしかの出来事が発生したようだが現在は落ち着いている。今後再燃するようなら適切な対処が必要になるのでしばらく経過を観察する」とか「現在起こっている徴候に対する治療は効果的なようである。このまま治療を継続しながら回復を目指して経過を観察する」といった意味で使われることが多いです。
これらはどれも状態の改善・回復を想定した『経過観察』です。
一方で、「現在起こっている徴候は○○と思われるが、現代医学では対処不能である。残念ながら効果的な医療処置はないのでこのまま経過を観察する」とか「いよいよ最期の時が近づいている。延命的な処置は無益であるばかりか有害でもあり得る。このまま自然の成り行きを尊重して経過を観察する」といった苦渋の決断としての『経過観察』もあります。
これらはつらいことですが、生きとし生けるものすべての宿命であり受け入れる以外の選択肢はありません。
しかしながら、この苦渋の決断としての『経過観察』はあきらめることでも見放すことでもありません。確かにこのような状況では生命維持を目指した医療行為は無力です。だからといって、見ないふりをしているのは『経過観察』ではありません。
そういう状況においても、あるいはそういう状況だからこそやれることはあります。やるべきことはたくさんあります。最も重要なのは、苦痛を軽減することです。
『生命維持を目指した積極的な医療行為』は行いません。『苦痛緩和を目指した医療・看護・介護行為』は積極的に行います。限界はありません。
終末期・ターミナル期における『経過観察』というのは、苦痛を感じていないかどうかをしっかりと・十分に・いろいろな思いを込めて見守る、ということです。
非常に残念なことですが、時間は止まりません。必ず進んでいきます。
何をしても、何をしなくても、時間は進みます。
だからこそ誠意をもって経過を観察するのです。この『経過観察』こそが緩和ケアの真髄かもしれません。